らんまん田邊教授の実在モデルは誰?溺死したのは本当? | 毎日がエブリデイ!

らんまん田邊教授の実在モデルは誰?溺死したのは本当?

らんまん田邊教授の実在モデルは誰?溺死したのは本当? ドラマ
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朝の連続テレビ小説『らんまん』。

東京編に入り、主人公の万太郎は東京大学に出入りが許されるようになりました。

許してくれたのは東京大学植物学教室の田邊教授。

らんまんの公式ホームページを見ると「万太郎の人生を大きく変えることになる」と紹介されていますが、この田邊教授には実在するモデルがいるのでしょうか?

 

ここでは

  • らんまんの田邊教授は実在するのか?
  • 実在するのであればモデルとなったのはどんな人?
  • 現実の万太郎と田邉教授の関係は?
  • 田邊教授の実在モデルが溺死したのは本当?
などについて調べてみました。

ドラマと現実の違いを比べながら『らんまん』、楽しんで観ていきたいですね。

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らんまん田邊教授は実在する?

神木隆之介さん演じる『らんまん』の主人公・槙野万太郎は、植物学の道に進むため高知県から東京大学を目指して上京します。

ここで出会うのが東京大学植物学教室の初代教授・田邊彰久(たなべあきひさ)。

要潤さんが演じています。

 

この田邊教授のモデルになった人は実在します。

ドラマらんまんと同じく東京大学理学部の初代教授・矢田部良吉(やたべりょうきち)。

植物学者です。

 

らんまん田邊教授のモデルとなった人物はどんな人?

『らんまん』田邊教授のモデルとなった矢田部良吉は、伊豆国韮山(現在の静岡県伊豆の国市)で生まれました。

植物学者としての経歴

矢田部良吉はアメリカへ留学後コーネル大学に入学(日本人初!)し、植物学を学んだ後に帰国。

帰国後は東京開成学校で教授となりますが、この学校が東京医学校と合併して東京大学が開設されることとなり、そのまま東京大学理学部生物学科の初代教授となります。

大学では植物について講義するほか、江ノ島・日光をはじめ植物標本の充実のため自ら各地で植物採集を行い、熱心に採集に従事していました。

 

それまで日本の植物の分類は、海外に送って鑑定を依頼し外国の分類群に照らし合わせていたものでしたが、それを日本独自の分類に変更。

これまで集めた植物標本や文献をもとに欧米の研究者に頼らず日本独自の植物の分類学の基礎を築きました。

矢田部良吉は「欧米風の植物学を日本に創立した人」であり、「日本の植物学を体系づけ分類学を究めた」人物なのです。

 

大学の研究は順風満帆で、国際的な植物学研究の道に進もうとした時、突然東京大学を非職となります。

非職の背景には、大学での対人関係の不和なのではないかと言われていますが、はっきりとした理由はわかりません。

突然大学から締め出されてしまった矢田部良吉がその後植物学の世界に戻ることはありませんでした。

詩人として活躍

矢田部良吉の功績は植物学だけにとどまりません。

詩人でもあった矢田部良吉は詩集を刊行し、「西欧」のものと「旧来の漢詩・和歌・俳諧」との差異を強調した新体詩を発表。

後に模倣者が続出することになるほど画期的なものでした。

ローマ字の普及

漢字や仮名を廃してローマ字を国字に」とする「羅馬字会(ろーまじかい)」を結成。

ローマ字の綴り方を定めたり小学校の授業で学ぶよう働きかけ、ローマ字の普及に意欲的に取り組みました。

教育制度と女子の高等教育

東京大学では植物学とともに欧米の初等教科書などを翻訳し出版するなど教育制度にも力を入れていました。

植物学者として以上に教育制度の整備改良に力を入れ、とくに学校の運営設立など教育制度の整備改良の必要を説きます。

 

女子の高等教育の拡大にも力を入れていましたが、理想とする欧米風の夫婦観が行きすぎた西洋主義と捉えらえれてしまいます。

東京高等女学校の校長に就任しますが、矢田部良吉をモデルとした小説「濁世」が発表されスキャンダルに。

その後、東京高等女学校も廃止となってしまいました。

その他の経歴

その他の矢田部良吉の経歴です。

  • 1877年  東京大学初代植物学教授
  • 1877年  東京博物館長・小石川植物園初代園長
  • 1886年  理科大学教授兼教頭・帝国大学評議官
  • 1887年  東京盲唖学校校長
  • 1888年  理学博士
  • 1898年  東京高等師範学校長

矢田部良吉は様々な学校に携わってきましたが1899年、鎌倉沖で遊泳中に溺死、47年の生涯に幕を閉じました。

 

らんまん田邊教授と万太郎のリアルエピソードがヤバい!

『らんまん』の田邊教授と万太郎のモデルは、実在した矢田部良吉と牧野富太郎

牧野富太郎が高知から上京し、東京大学の植物学教室を訪ねた時に二人は出会います。

矢田部良吉は「土佐から植物に大変熱心な人が来た」と歓迎し、牧野富太郎の植物学教室への出入りを許すのです。

東京大学の教授になっても標本収集のために自ら全国各地で植物を採集するような矢田部良吉にとって、小さな頃から独学で植物を研究し、植物学に情熱を持ってきた牧野富太郎を同士のように感じたのではないでしょうか。

植物学教室の本や資料を自由に見ることを許された牧野富太郎は毎日教室に通いつめ、「植物誌を作る」という目的の下ひたすら研究に没頭していました。

矢田部良吉は牧野富太郎のその熱心な姿に大いに心を動かされ、背中を押します。

 

しかしある日突然矢田部良吉の心が変わります。

「自分の本を出版をすることになったから以降教室の本や資料を見ることは遠慮してほしい」と、牧野富太郎の植物学教室への出入りを禁じるのです。

 

突然出入禁止となった牧野富太郎は矢田部良吉の自宅まで訪ね「日本には植物学者が少ないので、植物学を志す者にはできるだけ便宜を図ってほしい」と教室への出入りを懇願します。

ですが矢田部良吉が頷くことはありませんでした。

出入り禁止の理由として

  • 大学の権威を認めない牧野富太郎を大学側が嫌悪していた
  • 牧野富太郎が植物学教室の標本や本をなかなか返さない
    (矢田部たちが集めた標本や国の金で買った本を私物化されては困る)
  • 大学関係者は、地位のない牧野富太郎が教授と対等に接するのを嫌っていた
  • 大学と関わりのない牧野富太郎が教授より立派な植物誌を作ってしまうと大学の立場がない
などと揚げられていますが、実際はわかりません。

それからしばらくして牧野富太郎は高知に戻らなければならなくなりますが、東京に戻ったらまた矢田部良吉に抗議しようと思っていました。

しかしその必要はありませんでした。

牧野富太郎が高知へ帰っている間に矢田部良吉は東京大学を非職になっていたからです。

 

非職の原因は矢田部良吉の「激烈な性質」ではないかと言われています。

ところかまわず他者への批判をするため大学の上司や同僚とのトラブルが絶えませんでした。

非職後は植物学研究にかかわらなかった矢田部良吉。

牧野富太郎は自叙伝にて「とにかく当面の敵が大学を退いてみると、また多少の感慨がないこともなかった」と書いています。

矢田部良吉との関係は嫌な思い出だけではなく、東京大学植物学教室への出入りを許してもらったことや同じ植物学への情熱をもって語り合ったことなど恩師として感謝の気持ちもあったはず。

このあっけない結末には思うことがあったのでしょう。

 

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らんまん田邊教授の実在モデルは誰?溺死したのは本当?のまとめ

らんまん田邊教授は実在する?モデルとなった人物は誰?をまとめました。

  • らんまん田邊教授のモデルとなったのは実在した矢田部良吉
  • 東京大学理学部生物学科の初代教授となるほどの人でしたが、突然非職され植物学の道は絶たれてしまいました
  • その後は詩人として活躍したりローマ字の普及教育改革についても貢献しています
  • 田邊教授のモデル矢田部良吉は溺死により47歳の生涯を終えている

現実では仲違いしたまま会えなくなってしまった矢田部良吉と牧野富太郎ですが、ドラマではどうなるのでしょうか?

良い関係のまま進んでほしいのですが・・・。

これからの『らんまん』の展開を楽しみにしています。

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